生産緑地法の「改正」に揺れた都市農業
89年、私が35歳の時に大泉農協(当時。92年から農協をJAと呼ぶようになり、98年に大泉・練馬・石神井・板橋の4つのJAが合併。現在はJA東京あおば大泉支店の青年部長になりました。
「おもしろいことをやろうよ」と、ピクニックや遊園地に行ったり、家族もちよ独身者に分けてそれぞれが楽しめる企画を次々に提案しました。
100人ものメンバーを集めて、JAホールでクリスマスパーティも開催。
家族ぐるみの交流がきっかけとなり、うちの奥さん達が声をかけあい、「小枝の会」という若い女性の会もつくりました。
同じ年、東京都農協青壮年組織協議会の副委員に就任しました。
感じだらけのやたらといかめしい名前ですが、要するに都内各農協の青壮年部員の集まりです。
もともとは40歳までの青年部だったのですが、若手農業者が減ってきたために壮年部といっしょになりました。
各地域から役員を出すことになっていて、ちょうど杉並区の城西農協、練馬区の大泉・練馬・石神井農協・板橋区の板橋農業で構成する城西地区で、大泉に順番がまわってきたのでした。これが後に全国レベルでの農協青年部の活動へとつながりました。
生産緑地法「改正」の働きが本格化しはじめていったこともあって、メンバーたちは集会やデモなどいろいろな運動を展開してゆきました。
私自身も、作業着のまま練馬区民ホールで行われた決起大会で決意表明しました。
この生産緑地法「改正」(91年9月の施行)は、私たち都市農業者の生活と職業を左右するきわめて重要な内容を含むものなので、詳しく説明をしたいと思います。